自分はメンヘラなのかネズミなのか?
人間は心の奥でこんなにも繋がりたがっているものなのにどうして表面的にはバラバラで、「話してもわからない」「話の通じない」人たちが現実には多いのだろう。『バカの壁』を取り去ったらわかりあえるのだろうか?
失われた若い時間は取り戻せないけど、あの時間があったから今頑張れるのかもしれない。そんなふうにキレイ事で片付けられるほど達観しても、今はしたいとも思いませんが、でもあの時間がなかったら世界の美しさに気づかずにボーッと過ごしていたかもしれない。今もかなりボーッとしてるメンヘラだけどね。
三年寝太郎×4倍してたので、起きた時、寝太郎の4倍の仕事が出来るか、4倍村の役に立てるか、っていうと、実際には寝たきりで筋肉衰えて現実に適応することで精一杯だったりする。リハビリ、リハビリっと。
なんて現実はシビアなのでしょう。甘っちょろい想像では予測できないのでしょう。それはきっと、私がありきたりな筋書きや予定調和なオチじゃ満足できないからなんだろうな。うん、まだ見放されていないぞ。そう確信が持てる。私のメンヘラ人生いいことばかりだ。
下を見ない、と宣言した私に昨日、
「看脚下」という言葉が入ってきたのは、神様のsarcastic jokeかなんかなのだろうか?
「看脚下」自分の足元をよく見なさい、ということらしい。
つまり、あれか、下は見なくても、自分の足元だけはちゃんと確認しておけよ、ということなのでしょう。
神様ってどんなかわからないけど、かなりセンスいい、と思う。花とか、赤ちゃんの爪とか、眠るネコの横顔とか見ると、ものすごい造形主だとおもう。そのくせ、あんなゴキブリみたいなテカテカ気持ち悪い生き物を作ったり、ブ○シュみたいに人間はお猿さんからあまり進化していません、みたいな見本を見せてくれたりしてかなり底意地が悪い。もし、神様が自分の姿に似せて人間を作ったって話が本当なら、私の意地悪も冷酷なのもまた神様譲りに過ぎない、ってことで安心していいのだろうか?
やっぱり、この思考能力は自分はメンヘラなのだと自覚する根拠となる。
死に行く存在…死に行くものと暮らすってどういう気持ちだろう?
例えば、家族が余命3ヶ月と宣告されたら・・・どうにかして助けたいと思うし、少しでも当人のいいようにしてやりたいと思う。自分の無力さに打ちひしがれるだろうし、絶望しかないのかと嘆くと思う。そうしたおろおろしたやりきれなさは当然の感情で、家族や友人の無事・無病息災を願うものだ。でも、それが我が身に降りかかることもありうるわけで、もっと言えば生きている以上死ぬのは当たり前のこと。
なのに、亡くなるということには慣れない。何度お葬式に出ても慣れない。だって、その人は一人しかいないから。その人の死も一回しかないから。
例えば、ペットを亡くして、その後またペットを飼い始めた人ならわかるよね。今目の前で愛くるしい姿をしているこの命もやがて止まる時が来る。確実にくることをあなたは知っている。でも、死に行くものと同居しているとはほとんど思っていないだろう。
生きているものと暮らしている、それがまともな感覚だろう。(とまともでない人間が言うのもなんだけど)
ただ心の奥底で少し死を意識している。年寄りと暮らすと、ペットと暮らすと、いつか確実に来る別れを??それは若かろうと丈夫であろうと等しく皆に訪れるものだけど??より切実に感じて生活しているように思う。
毎日何人の人が亡くなるのだろう。何匹のペットが死ぬのだろう。
いろんな死に方があって、せめては安らかな死であって欲しいと周囲の者はそうしたことに慰めを見出そうとする。天寿を全うして欲しいと思う。しかし、弱肉強食の世界にあってチーターに喉元掻き切られて食べられるシマウマは変死でも事故死でもない。チーターにつかまらなければ、まだまだ生きられた若く健康な体を持っていたとしてもそれは自然の摂理の中で仕方のない死なんだよね。
若かろうと誰かの責任を追及しようと嘆こうと死者にとっては同じ。生者が死者にしてやれることなんて何もないんだよね、残念ながら。
ただ生きているものにとって気の済むようにするしかない。
せめてもは死者に恥ずかしくないように精一杯生きるしかない。
そして今生きてる人に対して誠実に生きるしかないんだよね。
ただ、そうした一期一会を意識していてもそれだけじゃ駄目なことがある。私、いろんなことに腹立ててるんだけど、その怒りをまっすぐぶつけることが出来ない。人と喧嘩できない。それは、意気地がないから、と言えばそうなんだけど、そのままその人に死なれたら、後味悪いからなんだよね。向こうだって私に死なれたら後味悪いでしょ。それで本当の気持ちがいえなかったりする。実際、喧嘩して「死んじゃえ」って言葉投げつけた相手に死なれた、って人身近にいたから余計気にしてるのかも。
きっと私に今、必要なのは「死」よりももっと「生」を意識することだと思う。
いつもね、今死んでもいい、と思って生きてきたんだ。別にこの世に生まれたくて生まれたわけじゃないし、生まれてきてよかったと思ったことも20代のときの1回しかないから。しかも、それがなんだったか忘れているんだよ、私。すごい間抜けでしょ。
ただね、そのときの嬉しさだけ記憶してる。
「あ、私今生まれ初めて生まれてきてよかった、って思った」
って思った感覚だけ覚えてるの、奇妙なことに。
今でも、今死んでもいいと思ってるけど、このまま生きていたくはない。こんな中途半端なまま生きているのはイヤだ。せっかく生を与えられているのだったらそれを塗りつぶして空白のまま終わらせたくないな、って思っているんだ。
ところで、私の中のネズミについてだ。
きっと本当に落ち込んで書きなぐっていた時は、みんな黙って見守っていてくれたんだろうな、今ちょっと精神的に上向きになろう、って気になってきたからいろんな言葉かけてくれるんだろう。みんなみんなありがとう。
だけどね、私、自分がしぶといの知ってるんだ。
苛めてもそれくらいのことじゃ死なないとたかをくくって苛めてるようなところがある。それはね、ほらよく映画とかアニメとかにあるじゃない。主人公が洞窟とか深い井戸の中とかどこかに閉じ込められちゃって危機一髪!って時に、ネズミがちょろちょろしていて、そのネズミの行く先を辿っていくと、抜け穴があって脱出できるの。
ネズミにはそういう外に逃げ出せる本能的能力がある。船が火事になるとき真っ先に逃げ出すとか、よく聞く話でしょ。
ああいうネズミがね、私の中にもいると思うの。頭がどんなにバカなこと考えても、心がもう起き上がる気力がなくなっても、そのネズミがお日様の当たる方を教えてくれる。生き延びる道を示してくれる。ごはんが喉を通らないと思ってもそのねずみが水を飲みたがる。夜眠れないと焦っていてもそのネズミが脳みそのシャッターを下ろしてくれる。
私は自分を信頼していなくてもそのネズミのことは信頼している。私も小学生のころ秋田犬に育てられたと言っていいくらいいろんなこと犬から学んだから。犬はとにかく生きろ、とにかく愛せよ、ってことシンプルに教えてくれる。それをバカな私は忘れているけど、私の中のネズミはちゃんと覚えていて私を助けてくれる。
そのネズミにね、甘えすぎてたかもしれないな。ろくに餌も与えず感謝もせず、ただいつも私は「生きる」方向を示してもらうだけ。むしろ、ネズミと逆方向のへそ曲がりで自分をドツボにはめるようなことのほうが多かったなあ。それでも忠実にネズミは生きようとしてくれていた。それに乗っかってただ生きながらえていた、死なずにいたけど本気で生きていなかった。
どこかね、一生懸命生きるってことに気恥ずかしさもあった。そんなのカッコ悪いと思ってた。なんでだろうね。でも、ちゃんと生きていないほうがよっぽどカッコ悪いんだろうな。あがいてる方がまだましかも。
これから先もきっと、メンヘラの自分をネズミは助けてくれると思う。だけど、それだけを頼りにしてもいられないかな。普通ネズミに道を教えられて脱出できたらそこからは自力で解決させるものだものね。そうでないと私のストーリーは始まらない。
今死んでもいいかな、と思っているのは、死にたいわけじゃなくて、今死んでも諦めがつく、ってこと。なんとなくそのストーリーがこれから始まる、って希望を抱いていられるから。明るい光が見えかけて希望を持っているときが幸せだから、達成感に浸っているのがそりゃ最高なんだろうけど、それは長続きしないからね、またすぐ次の不安や欲が出てくるから、未来に希望をもっているときにぷっつり人生途切れたら最高の死に方かなあって、そんなふうに思ってるんだ。多分、これは間違いなんだろうけど、そういう思考癖だからね、放っておくとそんなふうに考えちゃうんだ。
私はね、小さい時から死の割合の方が多く考えている。子供の頃は死が怖かった。特に夜は死の恐怖に付きまとわれていたように思う。だんだん年取って憧れの人とか親しみ感じる人とか好きな芸能人とか大事だった犬とかこの世よりあの世の方が多くなってきてこの世とあの世の境がだんだんそう大きくなく感じるようになって、それでもね、もっと生きたかっただろうに、死んでしまった親しい人、残された家族を見てるとね、命与えられているのに贅沢言ってちゃいけないな、って思う。
大丈夫、急いで死ななくても必ず死ぬから。
その時はきっと、まだもっと生きていたいってそう思うものだから、少しはこの世の役に立って、やりたいことやって、ちょっぴり足跡残して、…
大丈夫、死んだらいずれ無縁仏だから、今はとんがって人との絆断ち切ることない。そんなふうにメンヘラな脳みそに言い聞かせているんだ。
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