リスカとカナリアの話
2016年10月16日日曜日 リスカ
心療内科や精神科に通った経験のある人、鬱病とかなにかしら心の病を抱えている人、悩んでいる人が多い。そうした中では、時にリスカの経験も無い自殺願望もない人間の方がそれを恥じ入るような、却って肩身の狭い思いをするような妙な価値観の倒錯が見られる。でも…いいんですよ、そういう人のほうが健全なのですから。生き物である人間が生きようとして当たり前じゃないですか。自傷行為する時点でそれはやっぱりどこかおかしいんです。
でもね、そのおかしさ、って100%当事者のせいではなくて、家庭のおかしさとか、学校の歪(ゆが)みとか友人関係とか社会のおかしさのしわ寄せみたいなところがあって、最初にそういう症状の出るのは炭鉱のカナリアみたいにふつーの人よりセンサーの敏感な人種なんじゃないかと思うんです。
「リスカ」なんてお菓子メーカーみたいに明るく耳に届く流行りの言葉でサラッと書かれることの多い近年。この俗語が出回るまでは、そういう行為を表現する〝ひと言〟は存在せず、それは「手首を切る」という文字通り生生しい表現しかなく、「手首の傷」といえば、今みたいにタトゥーも流行っていない時代にものすごい重い消せない過去として背負わなければならない文字通りに「傷」でした。
この鳥かごの中が苦しくて、今にも殺されそうな全国のカナリアたちは殺されることよりも手首に傷をつけることで助けを求めたりその痛み故に自分が生きていることを確認したり、絶望の中であがいていたものでした。
それが、社会現象として「リスカ」なんて名づけられると、もう鳩も烏も雀もやってみたりする。カナリヤの苦しみに共感してくれている人たちも一部にはいるのでしょうが、カナリアの苦しみの切実なメッセージはどこにも届かなくなる。却って行き場をなくす。
その行き場がメンヘラブログであったように思います。
「リスカ」以前に手首を切っていた人たちに「リスカ」と言う言葉は社会的理解を与え、時に対処療法を示しながらも、しかし個人個人の苦しみにはもはや無関心になってしまったということです。
なんでそれが『自分を嫌いな子供たち』と結びつくかと言いますとね、私の自分を嫌いな感覚がやっとマジョリティーになれた、自分だけじゃないんだ、っていう安堵感、みたいなものを感じながら、自分と同じ不幸を子供たちに味わって欲しくないな、と思うんですよ。
しかも単に社会問題視されるだけで個人の痛みとして接してもらえなくなる・・・以前も書いたかもしれませんが、私『低体温児』という言葉が発明される前から体温の低い子でした。36度代で、もう私には熱っぽくて辛いんです。でも、保健室に行っても「平熱」「気のせい」で片付けられてしまう。親に言っても勉強したくないからごねてるだけ、と思われるのが癪なので訴えもせず、誰からも理解されず、助けても貰えず、ただただ我慢し続けていました。
次第に「最近の子供は平熱が低い子がいるらしい」と認識されるようになってくると、今度は「夜更かしするから自律神経が乱れているのだ」とか「3度3度ちゃんとごはん食べないでジャンクフードばかり食べているからだ」とか短絡的に理由説明が流布されました。
ちゃんと早寝早起きしてたし、おやつだってお母さんが手作りマドレーヌよく作ってくれたり、スナック菓子は体に悪いってあまり買ってもらえなかったし、コーラも飲んでなかったし、学校給食苦手だったけど、ごはんも一日3回ちゃんと食べてたもん。・・・でも「体温が低い=生活習慣のだらしない子」みたいな色眼鏡で見られているような、たとえ面と向かって誰からもそう言われなくても、五体満足に産んでもらって調子崩してる自分が悪いのだ、って先回りして妙な罪悪感を勝手に背負い込まされる。
体温に限らずいろんなことがマジョリティーに入れなかった私は「変わった子」で片付けられていました。
今なら「私って時代の最先端を行ってたんだわ」って自虐できるけど、小学生や中学生にはそれはしんどい。
それを「親のせい」といわれりゃ、自信をなくしておっかなびっくり子育てしてる親、特に生真面目であればあるほど余計な罪悪感にさい悩まされどうしていいかわからなくなる。
炭鉱のカナリヤは死を以って人の命を救ってきたけれど、人間は智慧とテクノロジーでセンサーを開発し、カナリヤが死ななくてもいい世の中が作れたのです。これ以上悲しいカナリヤの犠牲を増やさないでください。誰にお願いすればいいのかわからないけど。
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