メンヘラの哲学と野心
最近、いろんな人のブログ見て思うんだけど、人は思い込みで生きてるなあ?ってこと。ほら、私なんか思い込み激しすぎていつも撃沈してるから、私だけじゃないんだ、ってちょっと安心する。と、同時に人の思い込みならその偏りとか、歪みが見える。まあ、歪んでる人にはあまり興味がないので、そういうブログは基本的に読みませんが、『偏り』はけっこう感じるなあ。一つの視点に固執して、「この人、こういう物の見方もあるってこと頭の隅にでも置いたらずいぶん気が楽になるんだろうにな」
って見えることは多い。
実生活でも、自分の感情は言えないくせに、思ったことはすぐ口に出しちゃうメンヘラ気質なので、人から相談受けること多い。人のお役にたてるの嬉しいから、ついつい偉そうに分析したり、アドバイスしたりするので、そんな偉そうなこと言える人間じゃないのに、って自己嫌悪。
感謝なんかされた日には、
「私にもここにいていい存在理由があった。」っていう喜びと、
「その人が喜んでくれた。自分の判断は間違っていなかった。」っていう満足感と、
「そんな人から感謝されたりするようないい人間じゃないだろ、腹黒いヤツだなあ」っていう怒りと羞恥心と嫌悪感とメンヘラ気質。
もうアンビバレントどころじゃないの、いろんな想いが激流となって私を押し流す。で、いたたまれなくなる、と。
私も偏ってるんだろうけど、自分のことだから、その偏りが見えないのよ。もう一つ持つべき視点、広げるべき視野、の方向がわからないの。コメントマンの出現が怖いよぉ?ってここで泣き言入れたけど、ここにコメント入れてくれる方々はお手柔らかで優しくて、さほど怯えなくて済む。むしろ、最近は楽しみなの。きっとまだ直接的に批判されたり、忠告されたら落ち込んじゃうと思うけど、みんなが書いてくれるそれぞれの気持ち・反応を受け止めて、ちょっとずつ自分の心も考え方も前よりマシになったようにおもいます。そんなふうに少しずつ、自分の偏りを直していけたらいいかな、って。
あのね、ある本に…
『科学は共同研究できるけど、哲学はできない。その人固有の考えだから哲学と哲学者は結びついている。科学は古くなるけど、哲学は古くならない。』
というようなことが書かれていて、なるほどなあと思いつつも自分の野心に気づいてしまった。
過去に歳の離れた先生に告白されたとき、何でも話せるその人を失いたくなかった、って書いたけど、その人は本当に哲学の徒でこの人と交われば、共に『真理の探究』ができるんじゃないか、っていう期待感があった。シンリノタンキュウ、なんていうと大袈裟だけど、要するに、知りたい心、納得したい気持ち、そういう好奇心がね、私を突き動かしているのだと思う。それを満たしてくれる人。
でも、結局その人とじゃだめだ、って思ったのは、奥さんいるから、とかそういうことじゃなくて、その人の考えが浅くて、私の感受性のレベルに追いつけないの。仮にもティーチャーに向かって、なんかすごく不遜な言い方だけど、こんなに知識があるんだったら、これくらいわかってよ、ってことがわかってくれないの。
例えばね、つきあってた、というか私が「うん」と言ってしまった後で、ふと二人きりになっていきなり肩抱かれて、
「こうしてると安心するか?」
って。ばっかじゃないのぉーって本気で思いましたね、瞬間的に。人をこんな不安に陥れておいてよくそんなこと言えるなあって、その無神経さに腹が立った。でも、例によってそうは言えないから、
「うーん、でも、その元々の不安は今隣にいる人が作り出しているんだよぉ」
とだけいうのが精一杯だった。私が本音を話すと人を傷つけてしまうことは知ってるから他人に本心を言えないのかなあ?
それが自分についてだったら遠慮無しにいえるから自分が傷ついちゃうのかなあ?
それでもね、その人はそれまでで一番私の言葉を理解してくれた人だと思うよ。感性みたいなものが近かったから共感しあうこと多かったんだ。それまではただ本当に尊敬していたし。
でもね、その一番の理解者でさえも私をわかってはくれないんだ、って失望感の方が強くって。まあ他にもいろいろ理由はあったけど12年間精神的に引きこもりしていたわけです。成長するのに、冷静になるのに、思い出が輝きだすのに、12年もかかってしまうものなんだね。
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